神社本庁と神社の歴史

最終更新日 2024年11月22日 by einvestig

「神社の歴史が知りたい」
「神社本庁って何をしているところなの?」
「パワースポットって何?」

神社本庁は全国の8万の神社を管轄しており、存在している90%以上の神社が加盟しております。
宗派や土地が違っても、位の違いはなくある種平等にこの団体へ所属していることになるのです。
神社は神道系の社であり、日本に古くから伝わっている宗教になります。
実は特定の神様を祭っているわけではなく、祭神は複数鎮座しているケースも珍しくはありません。

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神田明神は東京で1300年続いていることで知られている

たとえば神田明神は東京で1300年続いていることで知られておりますが、恵比寿様と大黒様と大国主様、実在して神格化した武将平将門様が祭られていることで知られております。
朝廷に弓を引き自らを新皇と名乗った平将門は、茨城県の坂東市に坂東宮という館を持ち、神通力に長じており異国と自由に出入り出来ると言われておりました。
坂東宮には特殊な勾玉が安置されており、その勾玉には霊力があったと言われております。
その後朝敵となった平将門は同門の平貞盛に討伐されて、切られた四肢と胴は別々に埋葬されて、首は京都に運ばれる最中に飛んで呪詛の言葉を吐きながら、現在の大手町で力尽きて落下したと言われているのです。

全国の神社を統括する「神社本庁」とは

生前から神通力があったと言われる平将門

生前から神通力があったと言われる平将門の死後、京都では飢饉や天災や流行り病が流行し、悪霊祟り神と恐れられました。
関東では時の権力者に単騎で立ち向かったことで英雄視されており、各地に平将門を信仰する神社が出来て、また大手町には首塚が建立されることになったのです。
その他にも銅塚や由来のある祠などが作られて、後に神社になり地域の守り神や信仰対象になりました。
その中の一つが東京秋葉原の神田明神になります。
東京の総鎮守に変わり現在も参拝されており、荒ぶる神であり守り神として大切にされているのです。
現在では秋葉原という地理を活用して、デジタルに刃って厄除けをするデジタルお守りがすっかり有名になっております。

神社の歴史

神社の歴史を紐解いてゆくと、悲劇も数多くあることが分かります。
左遷されて非業の客死をして祟り神になった菅原道真公は、現在では天候を操る神様天神様として各地の天満宮に祭られております。
天候だけではなく知恵や学問を司っており、受験生や試験を控える人がお参りすることでも有名です。
死後に紆余曲折があって神格化して、民衆のヒーローになり信仰されることは、八百万の神々を信じる日本特有の心理かもしれません。
日本人は一粒のお米にだって七人の神様がいると言って、物のありがたみを説くような信心深いアニミズムを持っているのです。
非業の死や敗戦の将だけではなく、江戸幕府を開闢した神君徳川家康公は徳川初代将軍として日光東照宮神社に祭られており、江戸を鬼門から守る陰陽や風水の役割を担っていると後世に伝えられております。
日光は山岳信仰の中でパワーを持った土地でもあり、神君家康公が神格化することで徳川の威光が強くなる効果もあったのです。

浅間神社付近にある賎機山

余談ではありますが日光では猿が生息しており、土着の猿は聖獣として扱われて殺生されることが禁じられております。
境内には見ざる言わざる聞かざるの猿のレリーフがあり、辛抱強い生前の家康公をたたえているのが特徴です。
この神聖な場所で猿狩りをした武将がおります。
一説によると浅間神社付近にある賎機山とも言われておりますが、猿は徳川家にとって縁起の良い動物であり、周辺で殺生することは禁じられておりました。
禁を破ったのは直系の孫である徳川将軍家の徳川忠長であり、駿河大納言と呼ばれ後の将軍である家光の弟です。
忠長は徳川始まって以来の暗君と呼ばれておりますが、これは後の脚色であり不遇の人生を歩んだとも伝えられております。
将軍の筆頭候補でありながら二番手に甘んじることになり、乱心の末に数々の悪行を働き公儀により切腹を言い渡され早い生涯を閉じました。

家光のアドバイザーとして数々の業績を作った保科正之

忠長の弟には異母兄弟の保科正之がおり、会津藩の初代藩主であり家光のアドバイザーとして数々の業績を作り、現在でも名君として知られております。
幼少時より暗殺に怯えて暮らし、保科家の養子になってからは藩主としての務めを果たすために厳しくも丁重に育てられて頭角を現しました。
元服してからは文武両道に秀でて、領民のことを考えることが出来る領主として慕われて生涯を終えるはずだったのです。
しかし家光の信頼を得ることで重臣になり、江戸の発展のために尽力したと言われております。
控えめな人物であり、血の繋がりのある家光に対しても自分の正体を自ら明かすことはなかったそうです。
その人物像が好かれて重用されました。
玉川上水の整備や備蓄米制度で飢饉時に飢え死にを出さないシステム、火災対策のために江戸の街を再開発し、火災で燃えた天守閣の再現よりも街の復興を優先させたと言います。

まとめ

会津藩は徳川家を守る槍であり矛であると遺言し、徳川幕府が倒れる際に最後まで徳川側に立って抵抗したことで教えを守りました。
神社には数々の魅力的な歴史が眠っております。
神社は神格化したシンボルの体現であり、東照宮を代表されるように神聖な霊廟でもあるのです。
パワースポットとして参拝する際は、こうした歴史を事前に知っておけば感慨深さはひとしおになります。